サンケイスポーツ、サンスポ
[コラム]


乾坤一筆
1日

包帯でグルグル巻きにされた顔が痛々しかった。チャーリー・マニエル。ヤクルトから近鉄に移籍した1979年当時は、35歳の働き盛りだった。

「よく来てくれたなあ。ご覧の通りだ。あいつにやられた」。病室の壁に貼り付けた1枚の写真を指さした。ロッテ・八木沢荘六のピッチングフォームだった。6月9日、日生球場で八木沢から顎に死球を受け、複雑骨折で病院送りとなった。

「八木沢はわざとぶつけてきた。許せない! まだ顔を覚えきれていないから、忘れないように貼っているんだよ」

マニエルは76年にドジャース傘下3Aアルバカーキからヤクルトに入団。根っからの明るさで、「チャーリー、わがま〜ま」を口癖にナインに溶け込んだ。1年目こそ84試合で11ホーマーしか打てなかったが、翌77年に打率・316、本塁打42本、97打点。78年にも打率・312、本塁打39本、107打点と打ちまくり、ヤクルトの初優勝に大貢献した。

そして近鉄に移籍した79年も開幕から打ちまくったため、各チームからマークされ、ついに死球という最悪の事態を招いてしまった。

マニエルほど仕事を超えて、親しくしてもらった外国人選手はいない。親しくなりすぎて、マル秘のガールフレンドがスタンドで応援していることをスクープ気分で書いた。すると怒ったのなんの。家庭不和の種をまいてしまい、夫人からもなぜもっと早く教えないのか、と恨まれた。

そんなこともあり、面会謝絶の病室に招き入れてくれたのだろう。そのマニエルが2カ月もたたず、アメフットのフェースマスクを付けて現場復帰したのには驚いた。さらにこの年、97試合しか出場できなかったものの、37本で本塁打王、MVP。近鉄の初優勝に貢献したのだ。日本プロ野球史上、2年連続で、それもセ、パ両リーグの、初優勝チームに力添えした助っ人外国人選手はマニエルしかいない。

明るいわりに凝り性。行きつけのパチンコ店から中古を1台買い付け、家でもチンジャラやっていた。この性分は野球でも生かされ、相手投手との対戦も細かくノートにメモ。華々しい結果につなげていた。

マニエルは日本での経験を生かし、フィリーズの監督として2008年のワールドシリーズを制覇。69歳の今季も指揮を執り、名監督への道を着実に歩んでいるが、会ったら聞きたい。「八木沢をまだ許さないのか?」と。



小林 忍(こばやし・しのぶ)1972年産経新聞社入社。編集、事業、総務、サンケイスポーツ編集の各局次長を歴任。2003年東北総局長。昨年11月からサンケイスポーツ編集局編集委員。巨人担当歴7年もの古株。早大時代は射撃部に所属していた。


乾坤一筆(4日)
乾坤一筆(3日)
乾坤一筆(28日)
乾坤一筆(27日)
乾坤一筆(26日)

ページの上へ
コラムTOP
サンケイスポーツTOPへ

(C)産経デジタル